6代目庄五郎トーク
第4回だんご寄席 荒川の今昔
平成12年2月16日 午後2時
荒川の今昔 前文挨拶
昨年此の催しいたしました処、皆様方大変ご熱心にご参加を頂き、いつも満席でご迷惑をおかけして参りました。そこで本日はご案内の定員を更にへらして50名にさせて頂きました。お寒い中を良くお越し下さいました。さて前年の経過を更めてご案内いたしますと、
第一回 2月「根岸界隈」根岸の生成、「根岸の里」がどうして生れたか、有史以来の史実を申し上げました。
第二回6月根岸町近傍図 №1〜№27 子規さん?
第三回11月前回に引続き№28〜№53
さて本日は本年第一回(通算第四回)に当りますが、本日は根岸の地続きの谷中(下谷中・谷中本・谷中)そして谷中の地続きの田端(田圃のはし{はずれ})とございますが、以上を総括すると、現在の(荒川区・日暮里)つまりは此の辺より始めさせて頂きます。
尚いつも30分と限られた時間内でありますので、前回も予定の半分で終り、落語終了後、お残りの方十数人の方々に最後のところまでご説明いたしました。
今日も途中で終ると思います。(これはいつも申し上げますように私の方は一向構わないのでございますが、お客様皆様がお飽きになるのではないかとのご配慮で止めるのでございます。今日も落語のあとお残りの方に(今日の残りの半分)又は(前回の残りの分)又は此処に掲げてございます田山花袋の書と森鴎外の書との比較と云う内容の話をする予定。
さて、私は大正の終りに生をうけ、もの心ついて最初の記憶が
①提灯と旗の波 皇太子裕仁親王が昭和天皇に即位なさる践祚礼の記憶
ご大典祝の提灯と旗 日暮里の駅前か上野辺りかわかりません。
昭和3年11月10日(土)
②空一杯、独逸の飛行船ツエッペリン伯号を見上げてびっくりした記憶
昭和4年8月19日(月) 霞ヶ浦へ着陸
23日(金) 帝都上空より太平洋横断に向う
26日(月) ロス到着
昭和8年 第一日暮里小学校入学
昭和13年 京北実業 親父明治末卒業(この辺りで明治代四人)
昭和18年 明治大学政治経済学部 村山富市元総理とご一緒に入学 クラスメート
昨年(当所)荒川消防署(本署)二日間 以前、警察・ロータリークラブ・税務署 つのる年波 記憶がウトイ (忘れる)(はっきりしない)段々進む でも精々がんばる
では今日もがんばります。
第4回だんご寄席 荒川の今昔
今日、標高20Mの日暮里駅上の台地に登りまして、北の方、台の下に拡がる荒川区を眺望いたしますと、人家が稠密し、ビルは乱立し、駅前広場に通じる道路は交通頻繁で、折々選挙の雄叫びなども聞えて、大都会の狂騒曲をかなでておりますが、此の行手はるかな大荒川区の眺望はその昔、有史以前に遡れば、渺々たる(遠くかすかな)或は漠々たる(広くはるかな)東国の一湾内の煙波・水波を偲ぶことが出来るのでございます。今より五千〜六千年の昔、此の台地に登りますと、葦の生い茂った低地の湿地帯が遠く千葉の国府台まで続いて、或は金波銀波と輝く海辺の波が台地の裾を洗う入江でございました。
従いましてこちらの台地上で煙を挙げると遠く千葉国府台では対岸の地に異変のあることを察知したと云う時代も偲ばれるのでございます。やがていつしか河川の沖積作用と海の潮の干満作用とによって、荒川の氾濫原が形成され、やがて次の先史時代には此の台地の人類が竪穴や洞窟に住んで、魚介を漁る生活から脱して、台下の氾濫原に出来た干拓地、或は出州に人々が住み始めて、ほんとうの有史時代が始ったのであります。
その最大のものは浅草寺の奥山や橋場に寄った所の待乳山の聖殿様の高台であります。只今の三河島辺りもさしずめ小島が三つ出来て、それから三河島の地名が生まれたのではないでしょうか。
やがて各所に出来た島々が陸続きになって、人々がここに住み、畠が耕され、次いで農耕によって生産された物資が富として備蓄され、支配者が此処に生れ、小国家が各地に散在しました。
この小国家群を統一したのが大和朝廷であります。
専ら大陸の文化を移入、宗教を中心に支配・統治を拡げたのであります。やがて大和朝廷より来た皇族又は家来が武蔵の国司となって、先住民族を従えて土着し、此の地の地名として「武蔵国荒墓」が日本書紀に見られ、此の地が史実に現われた最も古い記録と相成りました。又、推古天皇のこの時分、浅草観音様のご本尊と云われる一寸八分の観音様(像)が今の駒形橋のところで浜成・武成と云う漁師に拾い上げられたと云う史実も此の東国の最初の記録であります。
次いで八幡太郎義家の奥州征伐の図にありますように、伊豆から相模原を通り、渋谷・千駄ヶ谷・雑司が谷・駒込・谷中・三ノ輪を通っておりますが、此の当時、品川・日比谷・日本橋・下谷方面は未だ入海の中で、通行甚だ不便でございました。
やがて現在の西日暮里駅上から田端駅上にかけての台地に遠く、現在の西武球場に程近い久米川より豪族の関長耀入道道閑と云う者が移り住み、館を構えました。此の道閑は太田道灌よりも三百年も前の「道閑」であります。此の関道閑のムスメ女は同じ豪族江戸氏に嫁ぎました。やがて此の道閑の所領は豊島氏によって取られ、此の豊島氏も又太田道灌に滅されました。そして太田道灌も又上杉定正に謀殺され、此の上杉も又後北条氏に滅されましたが、この当時北条氏の所有地は「小田原衆所領役帳」によって記録されております。初めて新堀(日暮里の先の名)、金曹木(金杉)、白沢(根岸)などの地名が記録に出て参ります。ご承知のように秀吉の小田原征伐によって北条氏は滅び、やがて江戸一円は徳川家康の支配地となるのであります。
時に天正十八年八月一日、家康は品川宿より馬上豊かに江戸入りをしておりますが、丁度、芝増上寺門前にかかると、その門前にてお出迎えした高僧の眼の輝きに家康はこれはただ者ではないと見抜き、後日江戸城に呼び出して、爾今、徳川家の菩提寺を申し付けたのであります(浄土宗・本山京都知恩院)。一方此の頃、京都より参りました天海僧上は江戸城の北の方角に寛永寺を開き、京都の比叡山に倣って東の叡山つまり東叡山寛永寺とて、京都の御所を守護する比叡山同様、江戸城徳川家の守護さするとおもねり、伝説では家康・秀忠・家光の三代に仕え、118歳を数えたと申します。従って徳川家は芝の増上寺と上野の寛永寺と双方の菩提寺を持つに至りましたが、政治色豊かな天海僧上は、寛永寺のご朱印地を加増加増で一万石に致しました。因みに同じ菩提寺でも芝の増上寺は半分の五千石、浅草の浅草寺は五百石に止まりました。一万石から大名と云われた当時、上野の山下から遠く赤羽に向って只今の北区・荒川区・足立区の大部分を占めて一万石のご朱印地をせしめたのであります。
ご承知のように嘉永六年と申しますと、十三代将軍家定の治世下でありますが、此の時徳川幕閣は急ぎ国防の為に一年半で江戸湾内に七ヶ所のお台場をこさえました。此の費用75万両、正にドロナワ土縄であります。当時は世の中に大工と植木屋よりおりません。此の荒川区内には元々植木職が数多く居りましたが、特に只今の宮地周辺におりました植木屋七郎兵衛は大手の造園業者でありましたので、早速お台場築造を命ぜられました。そこで多数の人足を集めて、品川八ッ山の土を船で運び出し、工事が始められました。当時「品川お台場の土担ぎ 先で飯食って二百と五十」と云うカケ声歌がハヤリ、昭和の初めまで古老に云い継がれておりました。
江戸幕府は日本橋を元点(起点)に五街道を作りましたが、中で奥州街道は日本橋〜横山町〜浅草橋〜浅草〜三ノ輪〜小塚原〜千住と通り、宇都宮で日光街道と分れるのでありますが、徳川家開祖の家康を祀る日光でありますから、日本橋から日光街道を名乗り、後年は宇都宮から先を奥州街道と云うようになりました。尚、千住から水戸を目指す「水戸街道」もございます。
斯様に千住宿は夫々の街道を往来する人々の足溜りとなりましたから、おのずと宿場を中心に町場が生れました。従いまして後年の南千住がそれであります。従いまして此の区の地域では、明治二十二年市制町村制が出来ました折、最初に南千住が町制になりました。次いで大正二年日暮里が町になり、大正九年と十二年に夫々三河島と尾久が続きました。此の間、江戸時代から郊村でありました当地は江戸ご府内への野菜供給地として「南千住の汐入大根」「日暮里の谷中生姜」「三河島菜」「尾久の京菜と蓮根」等が各地特有の農産物でありましたが、特に日暮里の「生姜」は全国的に有名になり、現在では北は北海道から南は九州まで、生産の初め地である日暮里駅前の地名が「谷中本」(大字名)と申しましたので、「谷中生姜」としての名が拡がり、只今では八百屋の店頭で何処の生産地であろうと「谷中」と符牒を付けなければ絶対に売れないと云われております。それ程谷中生姜は(握り小節)程の物でも口へ入れるとトロけるように□□(二字不明)(筋がないのが特徴)
茲に荒川行政上特に特徴のある史実を挙げますと、明治二十二年の市制町村制の施行の時、「王子みち」王子街道沿いに流れておりました音無川から以南(川の南側)金杉の一部は皆新しく出来た「下谷区」に吸収合併されたことであります。
音無川の北側は北豊島郡として昭和七年に「荒川区」が誕生する?残されましたが、川の南側の人々は、新に新市内となって上根岸町、中根岸町、下根岸町を経由して、現在は根岸1〜5丁目となりました。明治二十二年四月一日、一夜明ければ川をはさんで郡部と市内の差が生れ、色々のエピソードが生れますが、中に一つ特異(特にコトナル)記録としては、現浅草ビューホテル裏に多年屯するボロ裁落業者が郡部である時の日暮里村(現東日暮里1〜3丁目)へ、衛生上町内でやる仕事ではないと云う理由で、東京府会より強制移住を申し渡されたことであります。
その後ボロの集散日本一となり、主として米国ロスアンゼルスへ出荷されておりました。当時、日暮里村会でも大正二年以降の町議会でも、ボロ裁落精製の過程で機械の歯車が石を噛むと火花が出て発火するから注意を要すると喚起しておりました処、はたせるかな、遂に大正十四年三月八日旧日暮里町1〜2丁目で焼失戸数2,100戸と東京一の火災を発生させるに至りました。(警視庁100年史の時協力いたしましたので一冊頂きましたが、どうしたことか昭和三十八年四月二日、荒川署管内スポンジ会社から出火、52戸を焼失と掲載されました。)尚大正十五年十一月にも日暮里駅前地区(大字谷中本)
何しろ急激に」延びた住宅・工場地帯で、道路は狭く、水道施設も乏しく、色々と問題をかかえた町が見舞われる可くして見舞われた試錬でございました。
かくして昭和を迎え、昭和七年十月「市郡合併」によりまして、新に東京市内の新市内として「荒川区」が誕生し、発足したのでございます。
ここで江戸期の当地方を知るヨ縁すがとして、皆様方にお配りしてございます「妙めを奇談」と云う配り本の序文に当る先頭の図についてご説明を申し上げます。この図は大変珍しいもので、普通、江戸ご府内図でも郊村図でも皆、「分間図」が出版されております。特に当荒川地区ではこの図以外に俯瞰図はございませんので、敢て天保九年(1838年)162年前の図を採り上げた次第でございます。
それでは図の右端じ音無川の上手(川上)より暫時ご説明をいたします。
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